シベリア還らぬ遺骨の今

1945年8月15日、太平洋戦争の集結から今年70年の節目を迎える。本土以外の戦没者は約240万人。そのうち、半数近い113万柱の遺骨が海外で眠ったままとなっている。
70年経ってなお本土に帰還できていない遺骨の現状について、ロシアの収容作業の様子、収容事業に取り組んでいる東京の遺族や若者の声を取材した。

取材・撮影:dragoner
※本記事は2015年に作成されました。


スクロール

東京・千代田区霞ヶ関の厚生労働省(写真:アフロ)

 東京の中心、霞ヶ関のビルの中に、1万を超える遺骨が人知れず眠っている。
 厚生労働省が入居する中央合同庁舎第5号館。1万を超える遺骨はひとつの部屋に収まりきらないため、複数の部屋に分散され保管されている。それらの部屋に公式な名称は与えられていないが、厚労省職員からは慣習的に「霊安室」と呼ばれている。

 ここに保管されている遺骨は、第二次世界大戦とその結果により生じた日本人戦没者の遺骨のうち、遺骨収集帰還事業で日本へ帰還を果たした遺骨たちだ。アジア・太平洋の戦場となった地域や、戦後のシベリア抑留による死者など、世界中から集められた遺骨は一時的にここで保管され、誰の骨かが特定されれば遺族の元に、調査を尽くしても特定されなければ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑へと送られ安置されることになる。

 終戦から70年を迎える今年。多くの日本人にとって戦争とは、遥か昔の歴史上の出来事のように思われているだろうし、それ自体は決して間違いではない。しかし、今もなお都心で人知れず眠り続ける遺骨の存在は、我々のすぐそばに未だ戦争が続いている事を示している。

海外戦没者概数

シベリアに残された遺骨

 ロシア極東部の都市ハバロフスクまでは、成田から航空機で3時間程度で到着する。ハバロフスク空港に降り立った時は、あまりに身近な”ヨーロッパ”に驚くが、そこから今回の取材目的地であるコムソモリスク・ナ・アムーレまでは、鉄道でさらに10時間を要する。コムソモリスク駅に到着したのは18時を過ぎていたが、緯度の高いコムソモリスクはまだ昼間のような明るさだ。

 コムソモリスク・ナ・アムーレは、1860年に最初の移民により村が拓かれた。1932年には、ソビエト共産党の青年組織(コムソモール)の大規模な建設団が送り込まれ、街の開発が始まるとともに市政が敷かれた。市名のコムソモリスク・ナ・アムーレとは、「アムール川のコムソモール」を意味する。軍需を中心とした航空機・造船産業が発達し、現在でもロシアの航空メーカーであるスホーイ社の工場があるなど、ロシア極東部で最大の工業都市となっており、その軍事的重要性から、かつては外国人の立ち入りが制限されていた街でもあったという。ソ連時代は30万人を超えていた人口も、ソ連崩壊後の主要産業の停滞により、2012年の時点で26万人を下回るまで落ち込んでいる。依然としてロシア極東で3番目に大きい都市ではあるが、街の雰囲気からは過疎に悩む日本の地方都市と同じような印象を受ける。

日本人抑留者が建設したアムールホテル

 駅から車で宿泊先のアムールホテルへ向かう。こじんまりとしているが堅牢な建物で、ごく最近改装されたのかイタリアを意識した内装が施され、無線LANも全館で使用可能。カフェ・テラスも併設されているなど、コムソモリスク市内でも洗練されたホテルに入るだろう。今回の取材で宿泊先にこのホテルが選ばれたのは偶然だが、このホテルは日本人――強制抑留者によって建てられたものだった。今回、コムソモリスクにやってきたのは、シベリアの大地に眠る日本人抑留者の遺骨、その収集団の取材のためだ。

日本人抑留者の歴史

 戦中に満州などに駐屯していた旧軍人、軍属、民間人ら57万5千人が長らくソ連等に抑留されたことは「戦後最大の悲劇」とまで言われている。抑留者は収容所での過酷な強制労働、極寒の冬、そして飢えに苦しめられ、抑留者の1割に相当する5万5千人が亡くなっている。戦争が終わった後の出来事にもかかわらず、なぜこのような非人道的で凄惨な悲劇が起きたのだろうか。

 囚人をシベリアの収容所に送り、労役に就かせる収容所システムは帝政ロシア時代には行われていた。しかし、当時は囚人の監視も緩やかなもので、現地人との交流も可能であり、囚人の脱走もよく見られた。しかし、1917年にロシア革命が勃発し、後にソ連が成立すると、収容所の性格に変化が訪れた。政敵や反対者を「人民の敵」と認定し、矯正を目的として収容所に送られるようになっていった。

 さらに1929年、収容所に大きな転機が訪れる。この年、スターリンはソ連の重工業化を急進的に進める第一次五カ年計画を実行に移し、ソ連各地で大規模な運河の建設、鉱山の開発等が始まった。その労働力として使われたのが収容所の囚人たちだった。政治犯・思想犯だけでは足らないので、「人民の敵」の定義が拡大され、無実の技術者らが逮捕されるようになり、労働力として収容所に送られていった。無実の逮捕者に秘密警察の取調官が言い放ったとされる「おまえが無実なのは十分承知している。我々はただ労働力が必要なだけなんだ」という言葉は、当時の状況をよく表している。当時の秘密警察はソ連の経済発展にも責任を負っており、収容所はソ連の経済システムに深く組み込まれていたのだ。

 ピューリッツァー賞を受賞したジャーナリストであるアン・アプルボーム著「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」によれば、収容所の規模が最大に達した1950年代初期において、ソ連の金採掘量の三分の一、木材・石炭生産の半分が収容所によるもので、その他にも多くの産品が生産されていた。1929年からスターリンが死去する1953年までの間、1800万人が収容所に送り込まれたと見られている。労働者の国としてうまれたソ連であるが、その根底が実質的な奴隷労働によって支えられていたのは皮肉である。

 そして、ソ連はドイツの侵攻を受ける形で第二次世界大戦に参戦する。最終的にソ連は勝利したが、参戦国中で最も多い2000万人以上の死者を出し、戦後に深刻な労働力不足が発生した。戦争で疲弊したソ連国内を立て直すため、労働力として敗戦国民に目が向けられ、240万のドイツ人がソ連での強制労働に従事させられた。捕虜に対するこのような扱いは完全な国際法違反であるが、1945年8月9日のソ連対日参戦以降、捕虜となった日本軍兵士、軍属、民間人もまた同じ運命を辿った。行き先も告げられぬまま、ソ連兵の「ダモイ(帰国)」の言葉を信じて日本人が送られた先は、カムチャッカ半島からシベリア、北極圏、東ヨーロッパという広大な地域に及び、日本への帰還は遅々として進まなかった。

 集められた日本人は千名単位の作業大隊に再編され、各地での労役に就かされた。アムールホテル横の広場にある抑留者の慰霊碑その中で最も多くの人員が投じられたのは、第2シベリア鉄道とも言われたバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)であった。バイカル湖北西の街タイシェトから日本海沿岸のソヴィエツカヤ・ガヴァニを結ぶ総延長4000キロメートルを超える大事業で、10万人を超える抑留者が建設に従事させられた。

 過酷な労働に従事する抑留者は粗末な収容所で寝起きし、ノミやシラミに悩まされる不衛生な環境に加え、夏の暑さ、冬の極寒を耐え忍ばねばならなかった。しかも、1946年から47年にかけてのソ連は記録的な農作物の不作に見舞われており、数百万の国民が餓死する事態にまでなっている。その食糧不足の波は抑留者にも及び、配給されるのは僅かな黒パンや薄いスープ等の粗末な食事で、多くの抑留者が飢えに苦しんだ。渡された黒パンを日本人で分ける際、衆人監視の下で秤を使い、僅かな不公平すらないようにしていたという抑留者のエピソードは、当時の深刻さを伝えている。このような状況下、抑留者は多くの死者を出し、死者たちは旧ソ連の各地で埋葬され、日本に帰ることはなかったという。


ハリガソに眠る日本人

 コムソモリスク中心部から車で40分。小さな市街地を抜けると、湿原と林が点在する光景がどこまでも広がっている。都市居住者が週末を過ごす畑付き別荘”ダーチャ”の集落を抜け、戦車が並ぶ軍施設の脇を過ぎると、未舗装の道を進んだ先にある白樺の林が目的の場所だ。かつて、ここハリガソにあった第3762野戦病院に収容され、亡くなった日本人抑留者が埋葬された墓地があったが、今は鬱蒼とした木々に覆われ、墓地であることを窺わせるものはない。

 この場所での遺骨収集作業は今回で3回目であるため、車道から墓地までは人ひとり通れる幅の道が切り拓かれている。白樺の林を数百メートルほど進むと、森の中の切り拓かれた空間に出る。目的の場所、日本人抑留者を埋葬した、かつての墓地跡に到着した。

 収集作業を始めるにあたり、掘り進める場所に茂る木々の伐採が行われた。60年以上の時を経た結果、かつての墓地はすっかり白樺が生い茂る林となっている。この周辺に日本人が埋葬されているという情報は旧ソ連が作成した記録により判明していたが、実際に地面を掘るにあたっては、前もって正確な場所を特定しないと、捜索に多大な労力を費やすことになる。厚生労働省社会・援護局の事務官で、今回の遺骨収集帰還団を指揮する池田真之団長によれば、別の場所ではサッカーグラウンド5面分の面積から、300柱の遺骨を捜索したこともあるという。幸いなことに、今回の収集では日本人が埋葬されたのを覚えていた現地住民の証言から、詳細な埋葬場所を特定することができた。

 このように、現地での作業を効率的に行うには、事前の調査が鍵となってくる。シベリア抑留者の遺骨収集の場合、ロシアから提供された資料を基に埋葬地の特定が行われるが、作成された資料によっては誤りが多く見られるという。資料調査を進めるにあたっては、ロシア人にとって聞き取りにくい日本人名の表記ミスから、筆記で書かれたリストをタイプライターで清書する際の転記ミスなど、間違いやすいミスを事前に把握した上で埋葬資料の精査が行われる。今回のように現地住民の証言が決め手となることもあるが、70年近い歳月がそれを確実に困難にしつつある。

 だが、戦後に行われたシベリア抑留はまだ正確な資料が残っている方で、戦時中の戦死者になるとそうはいかない。戦時中でも日本が優勢だった1942年頃までは遺骨が遺族の元に戻ってくることも多かったというが、戦況が劣勢に転じてからは遺骨が戻ることが少なくなり、逆に戦死者がいつどこでどのように亡くなったのか、その記録すら残されないことが多くなってくる。今回の派遣団に静岡県の浜松市遺族会から参加した竹内治さん(75)の父は、1945年4月18日にフィリピンで戦死したと戦死公報は伝えているが、20日に生きている姿を目撃したと証言する生存者もいて、正確な状況は定かではないという。負け戦の混乱の中では、このような例は枚挙にいとまがない。

過酷な遺骨収集の現場

 こうした抑留者の遺骨収集のために今回政府派遣のもとロシアに来た収集団は全部で10人。厚生労働省の職員、遺族、学生らによる日本青年遺骨収集団(JYMA)からの派遣者、さらに抑留者団体の全国強制抑留者協会からは、92歳の抑留経験者が参加している。

 発掘作業は、まず伐採で辺りを切り拓いてから、協力するロシア側の公営葬儀社職員らとともにスコップで土を掘るところから始める。伐採後も草に覆われた地面からはどこに墓があったのか一見して分からないが、地面を慎重に踏んでいくと、かつて土を掘り返した跡は僅かに凹んでいるのが分かるのだという。掘り返すのは手作業で、遺体を埋められたとみられる深さまで掘り進めるのは大変な重労働だ。遺骨があるのは地面から60cmから110cm程度の深さで、大きな穴を掘り終えると、今度は日本人団員が穴に入って慎重に掘り進める。この埋葬地の遺骨はすでに大部分が土に還っており、泥の中から僅かな骨片や歯などが見つかることもある。穴からすくい出した泥塊をかき分けながら、何か入っていないかを手探りで探す、地道で根気のいる作業が続けられる。

 遺骨収集の現場は過酷だ。シベリアの天気は変わりやすく、雨が降れば地面は泥となり作業が出来ず、晴れた日は日本と変わらぬ酷暑となる。木々が伐採された現場では太陽を遮るものはなにも無く、強い日差しが直接降り注ぐ。また、シベリアの虫も作業の障害となっている。大量の蚊やブヨ、ハエが身体に群がるため、団員は暑さにもかかわらず長袖長ズボンを着用しているが、シベリアの虫は服の上からでも刺してくる。出国前、池田団長が虫刺され跡のある腕を見せてくれたが、3週間前に刺されたにもかかわらず跡はしっかりと残っていた。この地域は致死率の高いダニ媒介脳炎の可能性もあり、土中で収集作業を行う団員には予防接種が欠かせない。風が強くなると群がる虫はだいぶ減るが、団員が昼食をとるテーブルの上に日除けとして張られたタープの支柱が強風で倒れるトラブルが目前であった。幸いなことに怪我人はなかったが、あちらを立てればこちらが立たず。毎日違った自然の困難に直面する環境である。

作業中は蚊やブヨなどに常に悩まされる

 作業現場でJYMAの鈴木雄太が使っているスコップを見せてくれた。木製の柄が付いたロシア製のスコップだが、使われている鋼は廃線となった鉄道レールを鋳溶かして再利用したものだそうだ。「バム鉄道のレールかどうかは分からないですけど、複雑ですよね。鉄道建設をさせられた人を、鉄道のレールで掘り出すのは。頑丈なんですけどね」。現場では多数のスコップが使われているが、土を掘り出すのに強い力がかかるため、木製の柄が耐え切れずに折れていく。現場の片隅には、柄の欠けたスコップの刃がいくつも突き立てられていた。発掘現場のすぐ近くには旧バム鉄道の跡が残る。現在使われているバム鉄道の路線は新しく敷き直されたもので、廃線となった旧バム鉄道は並行して残っている。敷かれたレールに目をやると、"COLORADO 1944"の刻印があり、第二次大戦中の米ソがまだ蜜月だった頃に、アメリカから援助として送られたレールではないかと窺わせた。

 収集作業の合間、全国強制抑留者協会(全抑協)の荒木正則さんに話を聞くことができた。自身もシベリア抑留体験者であり、抑留中はバム鉄道の建設に携わった。92歳になる今年も、かつての戦友を迎えに派遣団に参加している。1994年(平成6年)に始めた訪露は今回で12回目になるが、最初の5回は慰霊が目的だった。6回目からは遺骨収集目的の訪露だ。遺骨収集を始めた年に80歳を迎えている。荒木さんの、同胞を救おうという想い、遺骨収集にかける執念は、この過酷な現場でも屈することはない。

 現場では遺骨らしきものが出てくると、にわかに騒がしくなる。長く土の中にあった骨は土色に変色していて、土中のバクテリアにより分解された骨は、ひと目で木の根と見分けがつかないまでに変化している。出てきたのが遺骨と分かれば他の部位はないか、埋葬されているものはないか、さらに周囲が掘り進められる。頭骨が出てこないかと探す一同に、荒木さんは言う。
「日本人が埋めたならね、そりゃ体は東の方を向いて埋葬されるよ」。
すでに遺骨が収集された穴は、全て東西が長辺の形をしている。タブレットの電子コンパスで方位を確認して現場を見ると、遺体は全て東、日本の方角へと頭が向けられていた。

 見つかった遺骨を丁寧に掘り出すと、派遣団に同行しているロシア人法医学者が鑑定を行う。法医学者による鑑定は、掘り出された遺骨の人種を特定して抑留者の遺骨であることを証明すること、そして遺骨の出国手続きに欠かせない書類作成のための重要な作業だ。現場ではひとつの穴から複数人の遺骨が出てくることもあるため、骨の特定を行うことで何人分の遺骨かも確認を行う。大腿骨なら1対2本で1人、胸骨、仙骨といった人体にひとつしかない骨が残っていれば、1本で1人といったようにカウントしていく。埋葬場所によって残っている骨はまちまちであり、頭骨は土に還っていることも多いが、大腿骨は比較的形を留めて出てくることが多い。状態の良い大腿骨が見つかると、その長さから故人の体格をおぼろげに想像することもできた。

 遺骨が出てきた穴は埋め戻され、遺骨の発見順に番号が振られた杭が立てられる。最も大きな数字は100を超えていたが、それでもこの埋葬地全体の半分程度だ。改めて辺りを見回すと、至る所に無数の杭が立てられオレンジの番号紐が揺れている。シベリアの森の中にこれほどの数の日本人の遺体が埋められていたことが、まざまざと視覚で伝わってくる。

遺族たちの戦後、残された課題

 遺骨問題を考える上で、避けては通れないのが遺族だ。日本における戦災遺族団体のうち最も大きく、精力的に活動を行っているのが日本遺族会である。日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟は、1947年11月に戦没者の父母、夫を亡くした女性を中核にして結成された。遺骨を収めた箱を乗せた列車が「英霊列車」と呼ばれ、「英霊の帰還」を人々が迎えた戦時から一転、戦後の兵士とその遺族に対する世間の目は冷たいものだった。追い打ちをかけるように1946年(昭和21年)2月には、戦没者遺族に支給される公務扶助料が停止され、遺族は経済的にも危機に立たされた。このような事態に遺族は団結して立ち上がり、連盟を結成し、遺族の救済を求めた。連盟による運動の結果、1952年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、1953年には公務扶助料が復活した。この年、日本遺族厚生連盟は日本遺族会へと改編され、現在も戦没者の慰霊顕彰活動の他、世界の恒久平和の確立を目指し活動している。

 それから62年。現在の遺族会の課題とは何か。長年に渡って遺族会や遺骨収集の活動に携わり、先日、日本遺族会会長に就任した水落敏栄参議院議員に、遺族と遺骨問題について話を伺う機会を得た。戦没者やその遺族についてよどみなく話すその姿は、初の遺族会生え抜きの会長としての強い思いを感じさせる。

日本遺族会・水落敏栄会長 水落会長は終戦を間近に控えた1945年8月9日、米軍の飛行場空襲により整備兵だった父を亡くした。自身は1943年の2月に産まれたばかりで、父は写真の中でしか知らない。中学を出たらすぐに働きに出たかったが、「学歴が大切な時代になる」との兄と姉の言葉と支援によって、新聞配達をしながら高校に通うことができた。しかし、就職活動では壁が立ちはだかる。ひとり親家庭への偏見などから、採用してくれる企業が無かったのだ。運良く日本遺族会が運営する九段会館に戦災者遺児枠で就職することができた。以後、日本遺族会職員として、遺骨収集には40年以上前から関わってきた。

 1974年(昭和49年)に初めてサイパン島に遺骨収集に行った際は、戦後30年経とうというのに遺骨が未だ残っていることに衝撃を受けた。水はけの良いサンゴ砂の中では、ジャングルの中でも遺骨がそのまま残っている。こんな形で30年も日本兵の遺骨が眠っているのを目の当たりにし、涙を流したという。以降、沖縄、硫黄島はじめアジア太平洋の各地に足を運び、遺骨収集を行ってきた。

 終戦から70年。当初は遺族の扶助救済の色合いが強かった日本遺族会も、遺族が経済的基盤を確立するにつれて、遺骨収集を始めとした戦災被害に関連する事業を展開するようになっている。昭和50年代には、親を亡くした戦没者遺児に対する慰謝を求める運動も行った。この時は議論の結果、苦労して育ててくれた親世代の慰謝を優先しようということになったが、1991年(平成3年)になって「父の戦没地を訪ねたい」という遺児の声をもとに、日本遺族会に厚生省(当時)が委託する「戦没者遺児による慰霊友好親善事業」が始まった。父親の慰霊と共に、現地住民との友好親善を深めるという趣旨の事業だ。

「70歳過ぎたおじいちゃんでもね、現地へ行くと慰霊祭の時に『お父さーん!』と涙流しながら言うんですよ。多くの人が『お父さん』と呼んだこともない人ばかりでね。」

 しかし、遺児の高齢化も目立っており、年々参加者が減っている。事業の告知を見て、初めて遺族会の存在を知った遺児もいるという。自分が遺族であることを、自覚していない遺族も多い。筆者自身、水落会長へのインタビュー前に、下調べで親族の戦没者について調べたところ、父方の大伯父にあたる親族が戦艦『大和』による沖縄特攻の際、随伴艦の軽巡洋艦『矢矧』に乗艦して戦死していたことが分かった。大伯父は独身だったため、妻や子どもはいなかったし、戦後に兄弟が大伯父のことを話すこともなかったのだ。水落会長に打ち明けると、やはり独身戦没者とその遺族の問題はかなりの数にのぼるという。

「(戦死した)軍人軍属準軍属230万人のうち、45万人が妻帯者であとは全部独身。戦没者が独身だと、親が亡くなると残された遺族は兄弟。その兄弟も高齢化しているから、その子供は自分が遺族だと知らないわけですよ。子供の方にとっては、自分のおじさんが戦没者だということを知らない人も結構いるんじゃないでしょうか」

 ひと口に遺族といっても、戦没者の記憶の受け継ぎには濃淡が出ざるを得ない。独身者のような忘れ去られた戦没者も少なからぬ数いるのだろうし、多くの遺骨もまた時の流れによって継承が難しくなる。さらにいえば、慰霊自体が忘れられていくケースもある。戦友会が建てた慰霊碑が朽ちていたり、戦友の高齢化で管理者が不在となっている碑がすでに散見されている。このような他団体が建てた慰霊碑についても、日本遺族会は厚生労働省から委託を受けて調査を行っている。戦争の記憶の風化は、すでにそこまで来ている。昭和53年に水落会長が参加したタイの遺骨収容事業での焼骨式日本遺族会としても、青年部や孫の会の活動に力を入れ、記憶や記録が薄れていくことに抗おうとしている。未来へ繋げること、それが大きな課題となっているのだ。

「私たちのような戦没者遺族・特に遺児は、戦後、親の苦労を見て自身も苦労した分、自分の子供たちにはあえてそうした苦労話はしたくないと思っていました。ですが、戦争と平和を伝えるという遺族会の活動自体が伝わっていないという課題を感じています。いまは青年部の活動に力を入れており、子や孫の世代に戦争の記憶を伝えていくことが必要だと思っています。各地で行われる慰霊祭から、戦争の悲惨さや平和を感じてほしいし、また教育現場でも、負の歴史も含めて子供たちに教えていかなきゃいけないと感じています。」

 遺骨の収集も昔から取り組んでいるが、そこからさらに一歩進もうとしている。終戦70年を機に、国が責任を持って遺骨を収集するための議員立法を準備している。遺骨収集を国の責務と明文化し、厚生労働大臣の下に外務省、防衛省、在外公館から職員を集めて、遺骨収集を加速させる。そしてアメリカの国立公文書館や、戦勝国の記録にあたり、調査を進めようとしている。

「終戦から70年がたって、今年は戦争の記憶を思い起こす年です。二度と戦争をしてはいけないし、犠牲を伝えていく必要があります。遺族の語り部による語り継ぐための取り組みも積極的に行いたいと思っています。遺族会の話を通じて戦争のことを知ってほしい。70年もたてば、遺族も大変少なくなります。遺骨収集事業に関して、法案は10年という区切りのあるもので、今から10年間が重要な期間。いずれかのところで区切りは必要だと思っています。しかしまず、やれるだけのことをやり尽くしたといえる10年間にし、集中的に取り組んだ上で、次の世代に引き継いでいきたい。正直、遺族としては忸怩たる思いがあります。15年20年くらい前にこうした制度が整っていれば……そう思いますね。」

長く途方もない事業

 今回の2週間のロシア派遣における収容数は39柱。さらに作業最終日に2柱を確認したが、派遣期間の都合上、収集するのは次回の派遣に持ち越しとなった。この埋葬地で埋葬されたのは200名。これまでの3回の派遣で120柱の遺骨を収容した。このペースで収容が進むなら、あと2回の派遣で完了する計算になる。しかし、それを終えても収容数は200柱であり、これだけの期間と労力を費やしても、未だ旧ソ連領内で眠る3万以上の日本人遺骨の1%にも届かない。遺骨収集が途方もない事業であることを窺わせる。

 収集した遺骨は全て洗骨され、掘り出された穴ごとに布袋に丁寧に収められる。この後、派遣団は焼骨式と慰霊式を行い、日本に遺骨を持ち帰ることになる。収集作業を終えた日の夜、厚生労働省の池田真之団長、そして日本青年遺骨収集団(JYMA)の団員に話を聞くことが出来た。

 池田真之団長は45歳。厚生労働省社会・援護局の職員として長く遺骨収集事業に関わってきた。在モスクワ日本大使館に勤務していたこともある。遺骨収集のありようについて、国、遺族、団体などあらゆる関係者と多くの現場をともにするなかで見えてくる課題も実感している。

「遺骨収集には国はもちろん、遺族や戦友会のみなさんなど多くの人々が関わっています。しかし30代や40代が参加しているかといえば、それはやはり少ないです。その世代は、現役の働き盛り、今の日本社会のために貢献している人たちで、日本でしっかり働くことが大事な方々です。遺骨収集の現状はひとつの世代に限らず多くの人たちに知っていてほしいですが、実際に現場で作業に従事する方は、主に高齢者と若者です。定年されてから参加される方もいらっしゃいますし、学生は長期休暇に参加する人もいます。」

JYMA富濱翔さん 今回の派遣団には、学生遺骨収集団体JYMAから鈴木雄太と富濱翔が参加した。話を聞いてみると、2人とも今回の派遣が初めての海外派遣であり、それまで海外旅行の経験もないという。鈴木は20歳の大学生。約10日間の収集作業の終わってみての感想を問うと、「最終日に頭骨が見つかったけど、時間切れで掘り出すことができなかった。シートをかぶせて次回の作業に引き継ぐことになってしまった。全体のやっと半分まできたが、ここにあると分かっているのに時間切れになったのはもどかしい。」と悔しさを滲ませた。

 24歳の富濱は沖縄出身で、派遣社員の契約期間が切れ、求職期間を使って参加した。ハリウッドの戦争映画が好きでよく観ていたそうだが、あるとき映画の中で描かれた日本兵のことに考えが及んだ。地元の沖縄にも遺骨があることは知っていたが、親からは防空壕に近づいてはいけない、あそこは幽霊が出るという話を聞かされ、避ける傾向があったという。本土から遺骨収集にくる人も見たことがあるが、沖縄県民で収集している人がいないことも気になっており、沖縄出身者として遺骨収集に参加しようと思い立ったのだという。

JYMA 鈴木雄太さん 今回の収集団で20代の若者はこの2人だけだ。日本遺族会の派遣もいずれも高齢の方で、遺骨収集に携わる後継者の育成が急務だと感じさせる。今後、JYMAのような若者が遺骨収集に主力になっていくのだろうが、それでも毎回派遣できる人数は限られている。ロシアに限らず、今後の遺骨収集事業全体の方針や位置づけはどのようになっているのだろうか。


戦勝国アメリカの遺骨収集との違い

 未だ世界中に眠っている戦没者の遺骨は、ロシアだけでなく、マリアナ諸島、パラオ共和国・パプアニューギニア独立国、硫黄島など国内外多岐に渡る。政府では今も毎年、各地域への収集団派遣や現地調査を行い、遺族への遺骨帰還をすすめている。

 また今年度から平成29年度までの3年間で、各国の国立公文書館等が保有する膨大な資料から遺骨収集帰還事業に繋がる遺骨情報を集中的に収集し、分析することとしている。さらに今後10年間を、集中実施期間として、取り組み強化をはかっている。

 戦後70年が経ち遺骨に関する情報がすくなくなる中で、遺骨収集に関わる人々からは、他国のようにもう少し早くこのような取り組みが行なわれていれば……という声も聞かれる。そして、様々なところで耳にしたのがアメリカの存在だ。戦争の当事国として、戦勝国として、そして国による戦没者遺体への対応で。あらゆる場面でアメリカの姿勢が比較対象として現れる。アメリカと日本の遺骨に対する違いとはなんなのだろうか。

 戦後に日本が再独立を果たした後も、アメリカ施政下に留まり続けた日本領は多い。その中には沖縄や硫黄島のような激戦地も多く含まれるが、日本に返還されるまでには、アメリカはその場所での自国兵士の遺骨を回収し終えていた。また、記録の面でも大きな差がある。日本人の遺骨を探すに先立ち、アメリカ側の記録を参照することもある。JYMAの年報にワシントンDCの米国立公文書館での調査派遣の報告があるが、部隊の日報などの資料がきちんと作成、分類、保管されていることに驚いたという。日本側の資料でここまでしっかりとしたものに出会えるのはそう多くない。

 しかし、戦没者遺体に対するアメリカの熱心な帰国方針も、そこに至る道は平坦なものではなかった。第一次大戦以前に行われた米西戦争、米比戦争で、アメリカは数千の戦死者を出しているが、その遺体は本国へと移送されていた。しかし、アメリカが遅れて参戦した第一次世界大戦では、自国兵士の遺体の安置場所を巡って、アメリカ国内では元大統領を巻き込んだ様々な意見が噴出した。

 第27代大統領ウィリアム・タフトらは、アメリカが初めてヨーロッパの戦争に介入した記念碑として、海外共同墓地設立を働きかける団体を設立している。また、フランスで息子クエンティンが戦死した第26代大統領セオドア・ルーズベルトは深く悲しみ、息子の遺体がフランスに埋葬されることを望んだ。戦地となったフランスでは、アメリカ人兵士の遺体に貴重な輸送リソースを割り当てることに強い異議があったし、フランスに埋葬された遺体を掘り起こして本国へ移送することへのコストに及び腰だったアメリカ政府機関もあった。しかし、ルーズベルトに倣えという声は、遺族の7割が本国への移送を望んだことで掻き消えた。アメリカ国民は自国兵士を自国で埋葬することを選んだのだ。

 このアメリカ国民の意向を受け、7割以上の遺体がアメリカ本国へ移送され、残りは永続的な海外墓地が作られた。第二次世界大戦でも、戦場で亡くなったアメリカ兵士の埋葬地について、戦没者の妻、遺児、両親、兄弟姉妹の順で決定権が与えられた。政府は移送を望まぬよう遺族に働きかけてみたものの、ほとんどの場合で本国移送が行われた。続く朝鮮戦争では、全ての遺体を本国移送する方針が示され、ベトナム戦争では現地で一時的な埋葬もされず、即座に遺体は空輸されるまでになっていた。

 一方、第二次世界大戦における戦没者遺骨について、独立回復後の日本政府の方針は一定していなかった。初期の現地埋葬方針から、ある程度の遺骨を収集した上で、それを「象徴遺骨」として収容することで幕引きを図る方法も取られた。しかし、野党の反発を受けて「象徴遺骨」方式は撤回されて遺骨収集が再開され、全て本国へ移送する方針となった。しかし、その方針が取られるようになって50年近く経つが、未だに多くの遺骨が残されたままである。

 自国民の遺体に対する日本とアメリカの違いは何か。アメリカ政府の方針も、長い時間をかけ紆余曲折を経ているが、現在の本国移送方針に決定的な影響を与えたのは、他ならぬアメリカ国民の意志だった。すると、進まない日本の遺骨収集の問題も、日本国民の遺骨問題に対する意志、あるいは無関心が根底にあるのだろうか? このことについて、日本遺族会の水落会長が示唆的な話をしている。かつて、遺族会で戦災遺児を組織化しようとしたが、最大でも14万人しか登録出来なかったという。戦災遺児は潜在的に100万人いると見られていただけに、この数字は深刻なものだ。前述した遺族会の存在を知らなかった遺児の話も含め、戦災被害に対する日本国民の意識が表れている。

JYMA 事務局長・平野醇さん (左)・JYMA 学生代表・黒田一樹さん(右)

若者たちが遺骨収集に参加する理由

 日本の遺骨問題の根底には、日本国民の意志の問題があるのかもしれない。だが、遺族でもなければ戦友でもない、いち日本人というだけで、遺骨収集に早くから取り組んできた日本の青年達がいる。

 日本青年遺骨収集団(JYMA)は、元々は慰霊を目的とした団体として1967年に前身団体が設立された。ところが、当時のメンバーが戦場跡の慰霊碑に赴くと、慰霊碑の周囲に遺骨が散乱している状況に衝撃を受けたという。この事実を受け、1970年に遺骨収集を目的とする学生・青年団体としてJYMAが設立された。これは日本遺族会が遺骨収集の自主派遣を行うよりも前のことで、日本遺族会の水落会長はテント暮らしで遺骨収集に臨むJYMA団員を見て感激したという。2015年現在の会員数は36名。世界各地で遺骨収集を行い、これまでに16万柱の収集に携わった。コムソモリスクに赴くに先立って、市ヶ谷のJYMA事務所にて代表者ふたりに話を聞いた。

 JYMA事務局長の平野醇は国内4回、国外で8回の遺骨収集を経験している。元々、戦争や戦史に興味がある子供だったという。祖父は中国戦線に出征して戦後は復員していたが、戦争の事を聞けないまま平野が高校2年の頃に亡くなった。祖父の死をキッカケに、より戦争について知りたい、何かをしたいという想いが強まり、調べていくうちにJYMAの活動を知ったという。
そして大学生になった平野はJYMAに入団した。しかし参加当初は、遺骨収集というものにそれほどの思い入れはなかったという。その自分の姿勢が大きく変わったきっかけとなったのは、2回目のガダルカナル島派遣の際、収集した遺骨の近くにあった遺品の眼鏡だった。戦時中を描いた映画やドラマでよく見る昔風の丸眼鏡。それまでは「遺骨」という、収集するべき単なる物体だったものが、その眼鏡を目にしたときに、はじめて実際にかつて生きていた人間として、そして戦争で命を落とした同じ日本人としてありありとその姿が迫ってきたという。眼鏡を掛けていたということは、読書家だったのだろうか? マジメな人だったのだろうか? 人相は?性格は?初めて遺骨が人と結びついた瞬間だった。「できることはわずかかもしれないが、一柱でも収容できるということは、一人の日本人、一人の人間が亡くなり、その何かしらの供養になるという活動だと思っている」と平野は話している。

 学生代表の黒田一樹がJYMAに入ったのは、高校の卓球部で先輩だった平野に「沖縄に行くボランティアがある」と誘われたのがきっかけだった。遺骨問題や収集についてまったく知らなかったが、どういうものか現実に見てみようという、ちょっとした旅行という程度の好奇心から沖縄での派遣団に参加した。派遣前はジャングルのような場所で遺骨収集をするのだと思い込んでいたが、実際は想像と異なった。遺骨収集を行ったのは小学校の近くにあった防空壕跡だ。小学生が防空壕の中に入って遊ぶため、コンクリートで入口が封じられていた。あまりに地域に密接した場所に遺骨があったことに衝撃を受けたという。

 遺骨収集活動で最も印象に残っていることを聞くと、平野と黒田ふたりとも、ガダルカナル島で収集した遺骨を海上自衛隊の練習艦隊が日本まで送り届けたことを挙げた。これまでは収集された遺骨が航空機で運ばれる際は荷物扱いされ、貨物室で空輸されるのが常だった。遺骨は人ではなくモノの扱いで、ある派遣では預けた遺骨箱が届いてなかったこともあったという。それが2014年夏のガダルカナル島での収集では、137柱の遺骨が海上自衛隊の練習艦隊で、艦長室に安置されて運ばれた。初めて遺骨が人として扱われて帰国したのだ。この遺骨の扱いに加えて、平野はその歴史的な意味を感じたという。

「ガダルカナルの戦いは最後、昭和18年(1943年)の2月に撤退するのですが、その時は3万数千人のうち1万何千人を駆逐艦に乗せて撤退したそうです。逆に言うと、その駆逐艦に乗れなかった人達というのが、ガダルカナルで亡くなられた2万7千人ということで、その時に撤退出来なかった方々を71年ぶりに、ある意味海軍の血を引き継ぐ海上自衛隊の艦艇にお乗せした。当時『ケ号作戦』と呼ばれた撤退作戦の続きが今、目の前て行なわれているのではないかと思わず感じました。硫黄島(写真:Reuters/AFLO)それまで船を見て泣いたことは無かったけど、そう思ったら涙が出てきました」

 ガダルカナル島から兵士を撤退させる『ケ号作戦』では、制海権・制空権を確保できない中で、迅速に撤退を行うには船足の遅い輸送船は使えなかった。そこで、高速の駆逐艦に兵士を乗せて撤退を行ったが、戦闘用の駆逐艦では乗せられる兵士の数は限られており、多くの日本兵が島に取り残された。その取り残された日本兵を、71年ぶりに艦隊が迎えに来たということになる。

シベリアから故国へ 戦後70年目の帰還

 今回の派遣では39柱の遺骨を収容し、更に2名分の遺骨を確認した。

 遺骨の帰国に先立ち、収集した遺骨を焼く焼骨式が行われる。収集した遺骨は洗骨され土が取り除かれているが、慰霊と検疫を兼ねる形で行われるのが焼骨式だ。保存状態が良く、DNA検査が可能と見られる遺骨からは検体が採られるが、今回検体が採取されたのは22柱に留まる。この22柱でさえ、実際に検体がDNA検査を行える状態かは明らかではない。遺骨の大部分は誰のものかは特定されることなく、戦没者墓苑に納められることになるだろう。

 焼骨式の準備では、小さな焚き木がいくつも組み上げられ、その前に遺骨を収めた布袋が並べられていく。収集された遺骨の状態はどれも異なり、それを収めた遺骨袋の大きさも様々だ。作業の合間に手を合わせてからいくつか遺骨袋を持ち上げてみると、太い大腿骨の重さを感じさせるものから、下顎骨のようにほとんど布袋の重さではないかと思わせるものまで、みな違った重さをもっている。葬儀で火葬された人骨を箸で持ったことがある人も多いだろうが、その時に感じた骨の重みとも違う。遺骨袋には発見時のデータが記載され 記録をとる人はこんなにも軽くなってしまうのかと驚きを覚えるほどだ。

 点火にあたり遺骨は布袋から取り出され、焚き木の上に敷いた袋の上に置かれて焼骨される。準備が整い、参列者が集まると焼骨式が始まった。献花が行われた後、点火が行われる。最初は添加剤に使われたガソリンと、布の袋が燃える程度の小さな炎だったが、焚き木に火が移ると盛大に煙を上げ燃え盛る。

 焼骨の煙が辺りに立ち込めてきた頃、JYMAの鈴木が口を開いた。「焼骨で出る煙は、日本のある東の方に向くと聞きましたけど、どうなんでしょうね」

 煙がゆっくりと立ち上る中、派遣団の面々はそれぞれに思いが募る表情を浮かべている。故郷に帰ることを夢見ながら遠くシベリアの地で亡くなった人達を弔う煙が、シベリアの空にたゆたう。それぞれの世代が、それぞれの思いを抱えて、この場所にやってきて10日間。ようやく、シベリアでの遺骨収集が終わろうとしている。

厚生労働省・池田真之団長 翌日の慰霊式は霧がかかり、生憎の天候となった。慰霊式は派遣団員に加え、収集に携わったロシア人やコムソモリスク市行政府の代表も参列した。祭壇には、抑留者が恋しかったであろう果物や日本の菓子、日本酒などが並べられている。池田団長の追悼の辞を皮切りに、派遣団に加わっている各団体の代表より追悼文が朗読された後に、1人ずつ献花を行う。後は帰国と千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われる遺骨引渡式・解団式を行うのみだ。

 追悼式の厳粛な雰囲気も一転し、いつも以上に打ち解けた様子が伝わってくる。池田団長が話してくれたが、取材した人のなかには「収集の現場に笑顔があるとは思わなかった」と驚いた人もいたという。事実、現場は賑やかだった時間の方が長かった。70代も20代もまるで親方と弟子のような掛け合いをしながら、同じ目的に汗を流していた。「大変な現場ですし、常に悲壮感を抱えて作業していては潰れてしまいますからね」と池田団長は言う。まったくその通りだ。笑顔があることで気持ちが救われ、日本に帰れなかった抑留者の壮絶な無念も受け止められる。

 JYMAの団員とロシア人のアルバイト少年らは、作業の合間に笑顔で歓談している姿がよく見られた。公営葬儀社のアルバイトとして、上は21歳から下は16歳までのロシア人の若者が収集作業に携わっている。互いに言葉は通じなくても、スマートフォンを片手に、若者なりのコミュニケーションを取っている。彼らのことを、池田団長は「文化の接点」と語る。

「彼らは、今後の人生でコムソモリスクから出ることはないかもしれないし、日本人と出会うこともないかもしれない。だけど、今回、世代の異なる日本人と一緒に遺骨収集したことは一生覚えていると思うんです。唯一知っている日本人があの日本の青年だったら、将来なにかあっても日本人に良い感情を持ってくれるように思います。それは日本の力になる」

 無論、こうした素晴らしい交流を破壊してしまうのが戦争であり、その不条理こそ過去の悲惨な歴史を生み出してきた。かつての厳しい日本人抑留が、日本人のソ連・ロシア感に暗い影を落としていたのは間違いない。だが、遺骨収集をきっかけにシベリアで生まれた交流は、不幸な歴史の問題を乗り越えて、次の世代への架け橋になり得るのかもしれない。この小さな、短い経験が、日本とロシアの未来に続くきっかけとなるのならば、それは掛け値なしに素晴らしいことだ。

 JYMA事務所でのインタビューの際、平野事務局長、黒田学生代表ともに、将来の希望は教師になることだと語ってくれた。生徒に自身が経験したことを伝え、考えるためのきっかけを与えたいという。風化していく記憶がある一方で、受け継がれていく記憶もまた、確かに存在していた。

 未だ日本に帰らぬ遺骨は113万柱に及ぶ。戦争の記憶は次の世代にどう継承されていくのか。課題は山積みであり、解決へ向けた困難な道のりはなお続く。本稿が少しでも多くの日本人が遺骨問題について考えるきっかけとなるなら、幸いである。

【参考文献】

  • 味方俊介「カザフスタンにおける日本人抑留者」東洋書店
  • アン・アプルボーム著, 川上洸訳「グラーグ ソ連集中収容所の歴史」白水社
  • G・カート・ピーラー 著,島田眞杉 監訳「アメリカは戦争をこう記憶する」松籟社
  • 栗原俊雄「シベリア抑留 未完の悲劇」岩波書店
  • 栗原俊雄「遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史」岩波書店
  • 富田武「コムソモリスク第二収容所 日ソの証言が語るシベリア抑留の実像」東洋書店
  • 長勢了治「シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか」新潮社
  • 浜井和史「海外戦没者の戦後史 遺骨帰還と慰霊」吉川弘文館
  • 和田春樹、NHK取材班著「NHKスペシャル 社会主義の20世紀 第6巻 証言で綴る20世紀社会主義」日本放送出版協会